第2回 「おっぱい随想録」

「しょうゆ」とくりかえし声に出していってみる。なんどもなんどもいっているうちに「しょうゆ」という名前がはたして「しょうゆ」を指し示す正しい名前だったかどうか疑わしく思えてくる。「しょうゆってなんだよ!」ということになってくる。

これと同じ現象が「おっぱい」にも起こりうる。
「おっぱい」の場合はさらに深刻で、その名前だけでなく、その形すら疑いの対象になってしまうのだ。
つまり「なんでこんなへんな形してるんだろう、しかもなんで興奮してるんだろう」ということになるのだ。
「おっぱいってこんなんだったっけ?」という疑問すら浮かぶのである。
そもそもおっぱいには人気のある形と、あまり人気のない形があるようであるが、よく考えてみてほしい。
「おっぱい」だよ?へんなまるいものがふたつ、からだにくっついてるんだよ?それにいいもわるいもないのじゃないか?
しかしどんなに冷静に考えてもこれは理屈ではなく、世の男性の多くはそのふたつのまるいものの前に屈するのである。 恐るべし「おっぱい」。

そんなふうにおっぱいにあこがれるのは、やはり自分が赤ちゃんの頃にあこがれているのではないか、とも考えられる。おっぱいに異常な執着がある男性の多くは、母乳でなく粉ミルクで育てられているというデータもある。
しかし、わたしははたとひらめいたのである。
男性が「おっぱい」にあこがれるのは、実は自分が赤ちゃんにおっぱいをあげたいからではないか!?

我が家に糸麻がやってきたのは先月20日。それからは毎日が発見の連続だ。ぼくはほとんど家にいてうたったり、絵を描いたりしているので、たいていの家事はやるし、糸麻の面倒もみることができる。すっかり「うんこ係」の仕事も板についた。
しかし。ぼくがどんなに糸麻をかわいいと思っても、ぼくの乳首からおちちは出ない。
おなかがすいて泣く糸麻。そっと口元に指をもっていくと夢中になって吸い付く。・・・なんてかわいいんだ!この指先からおちちが出たら、どんなに素敵だろう!!こっそり自分の乳首をくわえさせようともしたのである。(やっぱりちいさくて無理だった)

その時ぼくは、思春期におっぱいにあこがれた時の何倍も、おっぱいにあこがれ、そして嫉妬したのである。
たしかに思春期のそれは強烈であった。ぼくの視線はほとんど凶器と化していた。その頃も自分におっぱいがついていたらと思うこともあったが、それは赤ちゃんにくわえさせるためでなく、自分で揉んで楽しむためだった。

だかいまは違う。かつて自分がもらったように、自分のこどもにもおしみなく与えたい。・・・おちちを。
しかもゆみこはどんどんあふれてくるおちちをふたつももてあましているのだ。ひとつくらいわけてくれてもいいじゃないか!!
しかしどんなに願ってもその願いはとどかない。それが母というものなのだ。おちちをあげている母ほどおだやかで、やさしくて、美しいものがあるだろうか。しかも、それはとてもあたりまえのことなんだ。ゆみこがおちちを出すようには、ぼくは詩を思いつかない。こういう「あたりまえ」のすごさが母のすごさだと思うんだ。

(2006年3月5日 平井正也)

平井民俗学 TOP